奈良県桜井市にある「山田寺跡」。
現在、興福寺 国宝館で安置されている国宝・銅造仏頭は、今は頭部しか残っていませんが、かつては飛鳥山田寺の講堂本尊・丈六薬師如来像でした。その山田寺の跡地。
山田寺は、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の発願により舒明天皇13年(641)に造営が始まり、石川麻呂の自害(649年)の後、685年の天武天皇の代にようやく完成したと伝わります。
その後、衰退の道を辿り、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となりました。
蘇我倉山田石川麻呂
蘇我馬子の孫で蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従兄弟。
蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対しており、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らと共謀して、乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担した大化改新の立役者。
新政府では右大臣となるが、数年後に謀反の罪を着せられて自害に追い込まれる。
石川麻呂は無実であったとされるが、諸説あり。
銅造仏頭の歴史
治承4年(1181)の南都焼討により全焼した興福寺の復興の折、東金堂は再建されますが、本尊不在が長引いたことに業を煮やした興福寺の僧兵が、文治3年(1187)に山田寺の丈六薬師如来像を強奪するという暴挙に出て、東金堂に安置します。
その後、東金堂は何度も火災に見舞われ、山田寺の丈六薬師如来像も失われたとされ、応永22年(1415)に再建された現在の東金堂に、現本尊・薬師如来坐像が安置されます。
昭和12年(1937)年、東金堂の本尊台座内から、失われたと思い込まれていた山田寺旧仏の仏頭が発見され、世紀の大発見と話題になりました。
銅造仏頭(国宝・白鳳時代)興福寺 国宝館 所蔵
頭部しか残っていないにもかかわらず、国宝指定を受けている貴重な文化財の「仏頭」。
白鳳彫刻の基準作として高く評価されています。
その歴史的背景から様々なエピソードがあるのも魅力の一つ。
山田寺創建者の自害、強奪されたこと、奇跡的に頭部だけが火災から残ったこと、500年もの永きにわたって忘れ去られた存在であったこと、その妖しくも清々しい表情。
どんな全体像だったのか、何を見つめてこられたのか、お顔を眺めていると想像力が膨らみます。
写真は数年前のものですが、だいぶ廃れた感じのする跡地でした。
<山田寺跡>
【住所】奈良県桜井市山田1258
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